祈るとき断食する必要はありますか?

【質問】クリスチャンの友人が、1日断食をして祈ると話していました。断食をして祈る必要はあるのでしょうか。断食というとカルト的なイメージがあるのですが、聖書ではどう言っていますか。

【私たちの答え】 聖書では、祈りと断食の関連性について、あまり説明していません。しかし、聖書にある断食の例には、祈りと断食を結びつける共通点があるように思われます。

旧約聖書では、人々が特に祈りを必要としているときに、断食をしながら祈っているようです。特に、災難に遭遇したとき、また将来予想される侵略など、自分の力ではどうしようもできない事態に遭うときに、断食して祈る例を見ることができます。 旧約聖書では、人々が悲しみや悔い改め、特別な霊的な必要を感じているときに、断食して祈っています。

旧約時代の断食

旧約聖書ネヘミヤ記1章によると、ネヘミヤはエルサレムの城壁が崩されたまま、再建されていない現実を聞きます。その知らせに非常に悲んだネヘミヤは、断食をして祈りをささげました。 ネヘミヤは涙を流して断食し、民族の罪を自らのこととして、告白しながら何日も祈り続けました。彼は民全体のために、神のあわれみを求めたのです。

ネヘミヤの関心は、祈りに集中することでした。祈りの最中に、昼は何を食べようかとか、喉が渇いたけど何を飲もうかと、考える時間をも惜しみました。意外と私たちの人生では食事のために、多くの時間と労力を費やしていることがわかります。買い物をして、下ごしらえ、調理作業。食べ終わったあとの片付け…。ネヘミヤは祈るため、食べる時間をも惜しんで、神に集中したかったようです。断食とは日常の必要を一時的に休止して、祈りに集中することです。

「そこで私は、顔を神である主に向けて断食をし、粗布をまとって灰をかぶり、祈りと哀願をもって主を求めた。」(ダニエル9:3)

預言者ダニエルも、バビロン捕囚の民の帰還とエルサレムの再建のために断食して祈ります。「私たちは罪ある者で不義をなし、悪を行って逆らい、あなたの命令と定めから外れました。」(ダニエル9:5)ダニエルも神のあわれみを求めて祈ったのです。

旧約聖書には他にも、断食を伴う祈りのが例が記載されています。ダビデは、病気の子どものために断食して、涙ながらに真剣に祈りました(2サム12:16,21,22)。王妃エステルは、夫である国王に謁見するため、モルデカイとユダヤ人たちに断食をして祈るように要請しました(エステル4:16)。 断食による祈りを、旧約時代の信仰の人々がよく行っていたことは確かです。

新約での断食

新約聖書でも、断食を伴った祈りの例がいくつかあります。しかし新約では必ずしも、罪の告白と悔い改めに結びついているとは限りません。

女預言者アンナも、断食して祈っていました。「彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた」(ルカ2:37)。アンナは84歳でした。約束されたイスラエルの救い主を待ち望み、神殿で断食をしながら祈って、主に仕えていました。

サウロとバルナバが主の働きに任命されたことを、聖霊がアンテオキア教会に伝えたとき、教会は礼拝の中で断食をしました。 教会は断食して祈り、サウロとバルナバに手を置いて、彼らを宣教師として派遣しました。新約聖書では、断食と祈りは神を礼拝し、主の助けを求めるときに行われています。

しかし、断食をして祈ったら、神はさらに祈りに答えてくれるというわけではありません。ただ祈りに伴う断食は、私たちの祈る心の切実さ、危機的状況の中で、ぜひともあわれんでほしいという切なる心を、神の前に表しているのです。

断食とは、神との歩みに対する献身的な熱意の表現です。断食による祈り事態は信仰的であり、すばらしい霊的な訓練の機会です。

断食は、父なる神との親しい交わりに集中するために行われます。食べること、飲むことのような日常的な必要を短期間、放棄することで、祈りに集中することができます。

断食の実際

断食は一食を抜くことで、その時間を神との時間にささげることからも可能です。また1日から数日、断食することも可能です。体にとって負担がないように、食事は摂らなくても、ジュースで必要な栄養素を摂る場合もあります。簡単な非常食のみ食べて、神との時間を摂る場合もあります。

ただ断食後、急に大量の食事を摂らないでください。断食後の最初の食事は、お粥やスープのような、胃腸に負担にならないものであるべきです。断食をして祈るときは、体の負担も考えて、先輩クリスチャンのアドバイスのもとで取り組んだください。

断食の目的は、食事を摂らないことや、他の宗教のような自我に打ち勝つ自己修練のためのものではありません。あくまでも、日常の必要に費やす時間を一時的に休止して、その分の時間と労力を、神との交わりにささげるためのものです。最近ではネットサーフィンの時間を一定期間持たず、その時間を祈りにささげる「インターネット断食」も行われています。

断食とは

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」(ヘブル10:19)

断食する以上に大切なことは、神の神殿に入るような、神との親しい交わりをもつことです。 断食による祈りは、義務ではありません。あくまでも神の子どもである私たちが、神のすばらしさといつくしみ深さに、心から感謝して礼拝するために、断食して祈ることが有効であることを忘れないでください。