私を変える 神の愛

だれもが「人生、こうだったら良かったのに…」と思ったことがあるでしょう。もしかすると、それは過去の失敗かもしれません。自分でも落胆するような悪習慣かもしれません。

それでは神は、どのように私たちの弱い部分を、つくり変えるのでしょうか。私たちの人生に働きかける神の方法とは、どのようなものでしょうか。神は本当に、私たちの人生に自由と変化をもたらしてくれるのでしょうか。

はい。確かに、神はあなたの人生はつくり変えます。神の恵みを理解することで、私の人生は大きく変えられました。そしてあなたの人生にも、神はこの大きな変化をもたらしてくださると、私は信じています。

恵みと聞いて、あなたは何を思うでしょうか。私は、作家のジョセフ・クック(Joseph Cooke)が書いた恵みに関する定義が、最も適切なものだと思っています。彼の定義は次のようなものです。「恵みとは、私たちの不完全さ、弱さ、失敗、罪に出会ったときにも、私たちに向けられる愛に満ちた神の満面の笑みである。」※1

恵みとは何か?

恵みとは、神が私たちを罪人としては扱わず、私たちの罪に報復しないという、神の愛の性質に基づいています。私たちが忠実でないときも、神は私たちに忠実です。たとえ私たちが愛されるのにふさわしくなくても、弱く、不十分で、いやしい存在であっても、神の愛は変わりません。私たちの側の努力に関係なく、神は私たちの必要に答えたいと願っています。神の恵みは、無償で与えられる好意なのです。

神の恵みは、神を信頼する人に、愛と優しさ、好意を注いでくれます。神の恵みを獲得しようと、あなたが努力する必要はありません。ただ神との関係を持ってさえいれば良いのです。

人生で何かが間違っていると感じるときこそ、神の恵みが必要なときです。たとえば、誤った判断をしたとき、恥ずかしい行動をとったとき、神の恵みが必要だと実感します。本当は変わりたいのに変われない自分に向き合うとき、神に裁かれるのではと恐れるとき…、神の恵みが必要だと切実に感じるのです。

イエスを信じたとき、私たちは神のものとされます。罪もゆるされます。クリスチャンは、神の恵みのうちに存在するのです。私たちを自由にし、人生を変えるのは、神の恵みです。だからこそ、聖書が語る神の恵みを知ることは、とても大切です。

私たちは皆、自分の中に良い部分もあれば、悪い部分もあります。しかし私たちは、自分が最高のパフォーマンスを発揮する姿を、人に見せようとします。一方、自分の恥ずかしい部分は、隠したいと思うものです。

私たちが生きる社会は「努力」を大切にします。自分を分析し、悪い部分を改善しようと努力します。例えば、買い物に行き、自分に足りないものを購入します。ジムでトレーニングに励み、肉体を改造することに、時間とエネルギーを費やします。それでも改善できなければ、人から見えないように隠すのです。

恥ずかしい姿は 見せたくない

初対面の人に「自分のここが恥ずかしい、この部分は知られたくない」と思うところはありませんか。または親友に「あのことだけは、内緒にしておいて…」と思う部分はありませんか。

私たちがイエスを信じたとき、神との関係が始まりました。私たちは神との関係を、人との関係と同じように考えてしまうものです。神に対しても、自分の悪い部分を隠しておきたいと考えます。もし自分の恥ずかしい部分を神に隠すなら、自分と向き合う機会を失います。また、神に取り除いてもらう機会もなくなります。

神は人とは違います。神の方法は、人間の方法とは異なります。神は、人の良い部分は受け入れ、悪い部分を拒絶するような方ではありません。神は人を、一人の大切な「人格」として見ています。決して、人を分裂した人格とは見ないのです。

あなたは、自分の悪い部分を良くしようと努力する必要もありません。それは自分では、不可能だからです。しかし神は完全な方です。良い部分も、悪い部分も、ありのままを神に差し出してください。神にすべてを任せれば良いのです。

神の恵みを体験する…

旧約聖書の律法を理解せずに、神の恵みを理解することはできません。私たちは律法の中に、神が私たちに望む生き方を見ます。しかし正直に言うと、私たちは自分の力で、律法が要求する基準を守ることはできません。それならば、律法は何のために存在するのでしょうか。

律法とは鏡のようなものです。鏡を見ると、顔についた汚れがわかります。しかし鏡自体が、顔の汚れを取ってはくれません。それでも、家を出る前に、玄関の鏡で自分を確認して良かったのです。汚れに気づいたからこそ、その汚れを拭き取って、人前に立てるのです。

同じように、神の律法は私たちの欠点や罪を明らかにします。私たちは聖書の律法を読み、自分の弱さを自覚します。そして感謝して、自分の弱さを神に伝えることができます。神は恵みによって、その弱さに対処してくれます。

ガラテヤ3:24にはこうあります。「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」

私たちには生涯、神の恵みが必要です。救い主、イエスの存在がいつも必要なのです。ヘブル4:13-16にはこうあります。

「神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:13-16)

神のもとに出よう

私たちは、聖書の約束に基づき、謙遜に、神の恵みの御座に近づきましょう。そのとき、神の恵みを体験します。反対に、罪を隠して、その場にとどまっていてはいけません。

私の人生の中で、神の恵みの御座に出た経験を、率直にお話しします。私はもともと食べ過ぎる傾向がありました。子どもの頃、自分が肥満だったという記憶はありません。

しかし高校一年のころ、私より明らかに痩せている友だちが、体重を気にしている様子を目撃しました。私はそれを見て「彼女たちが太っているなら、彼女たちより体重が重い私はどうなの?」と思ったものです。

当時の私の体重は55kgだったと思います。それ以来、自分の食べる量を気にするようになりました。しかし、食べすぎないようにと考えると、余計に食べたくなるものです。

食べすぎる私を見て、母はよくこう言ったものです。「そんなにいっぱい食べないで。少しはダイエットでもしてみたら…。」実際に母は、私の肥満体質について、医師に相談に行ったことがあったそうです。

大学に入学し、寮生活が始まりました。私はそんなに食べてはいけないと知りながら、必要以上にお菓子を買い込み、隠れて食べていました。チョコレート・バーを、寮の机の引き出しに常備していました。食べてはいけないと言われると、もっと食べたくなるものです。

大学の近くに、ファーストフード店が二軒ありました。まずバーガーキングで、チーズバーガーとポテト、コーラを注文して、食べました。

その後、車でマクドナルドに移動します。そして、またハンバーガーとポテト、シェイクを注文しました。同じ店で二人分を食べるのは恥ずかったのです。わざわざ二軒はしごしました。

時間がないときは、一軒の店で「えーと。チーズバーガーとポテトとコーラ。あと友だちの分は…。そうそうハンバーガーとコーラ、フライドポテトを…。」

二人分を注文するかのように装い、結局は、私一人で全部を食べてしまいました。店員に二人分を食べることを知られたくありませんでした。恥ずかしかったので、嘘をついて二人分のように装って、注文したのです。

隠す必要はない

しかし私が食べ過ぎる習慣を、素直にイエスに祈りました。イエスは、私のありのままを受け入れてくれました。年月を経るにつれて、少しずつ私の食べる量も正常なものになりました。

当時、こんなに食べてはいけない。痩せなくては…という強迫観念すら持つようになっていました。しかし神は時間をかけて、私のダイエットへの強迫観念を取り去ってくれました。

それでも、葛藤を感じるときもありました。あるとき、コロラド州で開かれた大規模な独身女性のための会合で講演をすることになりました。

「コロラドに行くまでに、痩せなければ…」と思っていました。しかし減量しようとしても、なかなかうまく行きません。

「来週の月曜からがんばろう。」こう決心しました。講演まであと2週間、さらに5キロは痩せなければいけません。でも、がんばろうとすれば、するほど、減量ができなくなります。

私は親しい友人にこう打ち明けました。「実は私、自分の体重のことで本当にがっかりしているの。どうしても減量できないのよ。コロラドに行くまでにあと5キロは痩せたいんだけど…。」

私は、その当時の体重を正直に、彼女に話しました。すると友人は私を見てこう言いました。「体重を減らせば、講演中、もっと聴衆から称賛されるとでもと思っているの?」

そう言われて、はっとしました。「確かに、そうかもしれない。私の中で、痩せることで人に関心を持ってもらいたいと思っているのかもしれない…。」

すると友人は私をじっと見つめて、こう言いました。「今のあなたのままで、十分きれいよ。あなたを愛しているわ。あなたの体重なんて全然、気にならないわ。」

涙が出てきました。私が正直に、自分の心を友人に話しました。すると友人は、神に代わって、神の恵みを表してくれたのです。私に新しい心の動機が与えられました。その後、私は体重を少し減らすことができました。

律法ではできないことを、神の恵みが実現したのです。

謙虚な信仰

私たちが神の恵みを受けることを拒むなら、神との関係は成り立ちません。私たちが神のもとに進み出て、謙虚になって、自分の必要を伝えましょう。そのとき、神は恵みをもって、あなたの必要に答えてくれるのです。

自分で自分を変えようと強迫観念に縛られて、頑張る必要はありません。むしろ正直に、信仰をもって神のもとに進み出て、心配事のすべてを神にゆだねてください。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)

健全な信仰とは、自分の足りなさを自覚する信仰です。身構えることなく「主よ、罪人である私をあわれんでください」と言える信仰です。

パリサイ人は律法を守ることで、「聖なる者」となろうと努力しました。しかし彼らの心の動機は、人から宗教的に見られることでした。イエスは彼らの偽善的態度を「白く塗られた墓」だと批判しました。確かに、パリサイ人の外見は立派でした。しかし内面は死んでおり、心はイエスに対する恨みと苦々しさでいっぱいでした。

例えば、パリサイ人は「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と律法を極端に解釈して、人々に強要しました。イエスが安息日に病気を治したとき、パリサイ人はイエスを批判しました。

私たちは神との関係よりも、律法を守ることの方が大切だと感じるときがあります。サタンは、私たちが神との人格的に交わることを好みません。むしろ私たちが、宗教規定を遵守することで安心感を得て、神との時間をないがしろにするように仕向けるのです。

あなたは神の恵みを体験したいですか。そのために、私たちがまず、謙虚に神に近づく必要があります。ヤコブ4:6にはこうあります。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

数年前、ある講演のあと、一人の女性が私のところにやってきました。彼女の顔は暗く、何かに責められているようでした。話す中で、彼女がイエスを信じていることがわかりました。しかし、彼女には心に恥じる習慣があったのです。

彼女は何度もその悪習慣をやめようと努力しました。しかしその努力はいつも徒労に終わりました。どんなに誓っても、努力しても、彼女はその悪習慣をやめることはできませんでした。

私は彼女に説明しました。サタンは、私たちが罪を犯すことを喜びます。悪魔は罪を根拠に、私たちを攻撃します。悪魔は、私たちの罪を非難します。

私は彼女にこう質問しました。「あなたはその悪習慣を、神のもとに持っていったことはありますか。素直に神に、その罪を告白したことはありますか。」彼女の答えは「いいえ」でした。彼女はその悪習慣を恥じていました。神の前にこのことを祈ることをためらっていました。

私は彼女にこう言いました。「今度、悪習慣に陥ったら、一人でその罪を抱えて、自分を非難するのではなく、その罪から神の愛に目を向けてください。」

次にその悪習慣に陥ったら、その悪習慣を明るみに出すべきだと勧めました。そして、一緒にこのように祈りました。

「神さま、私はあなたのものです。神さま、あなたはそれでも私を愛しています。イエス・キリストの血潮が、私をすべての罪からきよめます。私は、自分の罪を認めます。同時に、私の力では何もできないことも認めます。神さま、私の意志と、私自身をあなたにささげます。私自身を神のことばの前にささげます。あなたの聖霊によって、私のうちに働き、私をその悪習慣から解放してください。」

私は、彼女と一緒に、神の恵みと平安を祈りました。彼女が罪から神に立ち返りたいと願っていることが、よくわかりました。

数ヵ月後、彼女から手紙をもらいました。彼女は続けて、私から聞いたことを実行していると、手紙には書いてありました。「この数ヶ月、私が悩んでいた悪習慣の影響が、以前より本当に小さくなっている事実に驚いています。」

以前は罪の罠にはまっていました。神の恵みなど、まったく感じられませんでした。その彼女が今や、神の前にへりくだり、神の恵みの光の中に、自分の罪を告白しています。神は祈りの中で、彼女に出会ってくださっています。

信仰で受け取る

ヘブル4:13ではこう書かれています。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。」

ローマ5:20には「しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」

神の恵みは確かに、私たちのすぐ近くにあります。しかし神の恵みを受け取るためには、まず信じなければなりません。私たちが神に信仰をもって応答するとき、神が働きます。

神は信頼できる方です。神の愛も本物です。神の寛容さは確かです。神の配慮によって、私たちは充実した人生を送ることができます。この意味を私たちが知るとき、神は愛の本質を私たちの人生で成し遂げるのです。

私がいる場所に神が来て、神の恵みで私を変えます。神は、私の内面の原動力に触れて、私を新しい人に変えるのです。これこそ、神が私たちに約束したことです。

神は語ります。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブル8:10)

律法ではできないことを、神は恵みによって、私たちのうちに成し遂げるのです。

2コリント3:18にはこう語ります。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

私たちの人生が変えられるためには、プロセスが必要です。私たちが神を信頼し、神のことばを信じるとき、神が私たちの心を変えます。しかし、この変化は一度に起こるものではありません。段階的な過程を一歩一歩踏んで成し遂げられるのです。

ルイス・スペリー・シェイファー(Lewis Sperry Chaffer)※2 は、神の恵みについて、その著書でこう記しています。「神のことばはこう証言する。永遠における救いの全体像も、神の恵みのあらゆる祝福も、ただ信じることから受けられる。」

神の恵みが人生を変える

では、どのように神の恵みを体験したら、良いのでしょうか。私たちは自分の弱さを感じるとき、神の前に出て行くものです。無力さを感じるとき、神を求めるべきです。罪の中で、失敗の只中で、神のもとに出て行きましょう。神の恵みを体験して、安らぎを得ましょう。神の愛が、あなたを変える力であることを、信じましょう。そのとき、私たちの信仰は成長するのです。

2ペテロ3:18にはこうあります。「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」

ルカ15章には放蕩息子のたとえが書かれています。弟息子は家を出て、父親の財産を浪費します。財産を全部使い果たし、ようやく自分の必要と、父親の愛に気がつくのです。

「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はこころで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」(ルカ15:17-19)

彼はへりくだって、父親の家に向かいます。弟息子は父のもとで、正直に自分の今の状況を語りました。父は放蕩息子をもう一度、息子として温かく家に迎えたのです。

しかし兄息子は、父親の寛大さに反発します。兄息子は父を責めました。その態度はまさに律法主義です。弟は律法を守らなかったから、恵みには値しないと考えたのです。しかし父は、たとえ財産を失っても弟息子を愛していました。

神との関係は、律法よりも力強いものです。サタンはむしろ、私たちが律法主義に陥るように導きます。悪魔は、私たちの違反を責め、罪責感の中で生きるように仕向けるのです。

ローマ8:1にはこうあります。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

聖霊の助け

私たちのうちには、恵みにより神の聖霊が与えられています。聖霊の助けで、私たちは神の御心を行うことができるのです。聖霊が私たちの人生に満ちるとき、私たちは毎日のふとした瞬間に神の恵みを実感するのです。

聖霊に満たされた人生とは、自分の失敗を認め、失敗や弱さをも神にささげる人生です。私たちは罪の責任を認め、神が自分を変えてくれるように祈りましょう。

十字架の上で、イエスは私たちの罪のために死なれました。罪を犯した私たちのために、イエスが罪の代価を身代わりに支払ってくれたのです。

罪を告白するとき、自分がしたことが悪いことであることを認めます。そして、イエスがその代価を、十字架上で完済したことに同意するのです。神の子どもとして謙遜に誠実に、罪を告白しましょう。そして、神の恵みを受け取りましょう。

ジョン・パウエル(John Powell)はこう語りました。「私たちは愛を受けるために、自分を変え、成長し、善良に生きなければならないと考えるものだ。しかし実際は神に愛され、神の恵みを受けることで、私たちの人生は変えられ、成長し、善良に生きるようになるのだ。」

私たちがすべきことは、正直に自分自身を神に祈り、告白することです。クリスチャンとして成長は、どれだけ神の前に正直になれるかにかかっています。

神の恵みによって、私たちは神と向き合うことができます。神の恵みで、神のことばの光の中で、自分のありのままの姿に向き合うことができます。

私たちは、神に愛され、受け入れられています。神のもとに出て行きましょう。そのとき、神は私たちに自由(ヨハネ8:32)と豊かな人生(ヨハネ10:10)を与えるのです。

受け入れられた体験

数年前、私のところに若い女性が相談に来ました。彼女の説明だと、胃が締め付けられるような苦しさがあり、罪悪感に圧倒されて、夜眠ることもできないほどでした。彼女の心は自己憐憫と恐怖と屈辱でいっぱいでした。

彼女の問題の根本は、彼女が不倫をしていたことにあります。聖書が不倫を禁止していることを、彼女も知ってはいました。しかし彼女の心は、不倫の罪でがんじがらめに縛られていました。人から拒絶されることを恐れて、だれにも不倫の事実を言うことができませんでした。

そんな彼女がうつむきながら、私にすべてを打ち明けてくれました。彼女は心から自分の罪を悔いていました。そして罪から、神に立ち返りたいと切に求めていました。彼女は私の前で、自分の罪を神に告白しました。彼女は、神のゆるしと恵みを受け取りました。

彼女が私のところに来たとき、初めは牢獄の中にいるようだったと、祈りの後、私に話してくれました。しかし私と話す中で、事実を話しても拒絶されない事実を味わいました。むしろ私から神の愛と、自分のありのままが受け入れられているというメッセージを受け取ったそうです。

もはや罪責感はない

数ヵ月後、彼女から手紙が届きました。彼女の手紙にはこう書かれていました。「鎖が外れ、地下牢の扉が開きました。数百kgもの重荷をおろすことができました。自由で、新鮮な感覚が回復しました。あなたが、神の愛と受容、ゆるしを、私に示してくれたからです。」

カウンセリングの中で、私は彼女に自分の今の状況を説明してくれるように頼みました。彼女が自分の状況を話し始めてみたら、思ったほど苦痛を感じることなく、素直にありのままを話すことができたと、手紙には書いてありました。

受け入れられているという安心感が、正直に心を分かち合う鍵となります。その後も、彼女を助ける中で、彼女の内面の必要が理解できるようになりました。彼女は私に話を聞いてもらう過程で、神の恵みを経験できたと語っています。

聖書の教えは聖く、完全なものです。鏡のように、罪を明らかにしてくれます。彼女は信仰をもって、示された罪を、神に告白しました。彼女は罪を告白する中で、神の恵みを受けたのです。

謙遜になり、誠実に、自分の罪を明るみに出しましょう。神の前に告白しましょう。そのとき、神の恵みを受けることができます。罪の重荷から解放されます。そして、神との関係が深まり、信仰面で成長します。

今、あなた自身について考えてみてください。あなたの中に罪責感はありますか。人から拒絶されることを恐れていませんか。自分にはまだ足りない部分があると感じていませんか。

もし聖書から外れる行動があるなら、謙虚に、そして誠実に、神のもとに出る必要があります。隠す必要はありません。嘘をつく必要もありません。神は決してあなたを非難される方ではありません。謙遜に神の前に出て、正直に心を神に伝えましょう。そして、神の恵みを体験しましょう。


『神の愛とゆるしを体験するには』の記事は、具体的に罪を告白する方法が書かれています。ぜひ、この内容を実践してみてください。

『霊的呼吸を忘れないで』の記事は、日常の神との関係のメンテナンスに関する記事です。こちらもお読みください。


こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にはできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためのなのです。(ローマ8:1-4)

同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(1ペテロ5:5-7)

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。…だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。…私はこう確信しています。死も、いのちも…そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:31-39)

Ney Bailey著『Faith Is Not a Feeling』Waterbrook Press, 2002より許可を得て転載。

[著者紹介]
ネイ・ベイリー(Ney Bailey)は50年近く、国際キャンパス・クルセード・フォー・クライストのスタッフとして仕えている。世界各地の大学やカンファレンス、リトリートの講師として、大学生や議員、外交官と幅広い人々に、自身の経験を講演をしている。ネイは1976年7月に、アメリカ・コロラド州で起こった洪水から生還。しかし同じ洪水で同僚7人が犠牲になった。一人生存した痛みにどう向き合い、心の傷がどう癒されたかを記した『Faith Is Not a Feeling(信仰は感情ではない)』を出版。本稿はその一部を許可を得て、転載したものである。

[脚注](1) Joseph R. Cooke “Free For The Taking – The Life-Changing Power of Grace”, F. H. Revell Co, 1975 (2) ルイス・スペリー・シェイファー(1871-1952)はアメリカの神学者、伝道者、牧師。ダラス神学校の創設者、初代校長。現代ディスペンセーション主義神学の提唱者の一人でもある。