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神の愛とゆるしを体験するには

「みだらな思いで異性を見てしまった。」
「相手を傷つけるようなことを言ってしまった。」

日々の生活の中で何らかの罪に気づくとき、「こんな自分の罪を神は本当にゆるしてくれるのだろうか」と思い悩むことがあるでしょうか。頭ではイエスの十字架によるゆるしを信じていても、ある罪に関しては、心の深いところで神のゆるしを体験していない、ということがあるでしょうか。

毎日の体のよごれは石鹸で洗うと落ちるでしょう。しかし、心のよごれはそうはいきません。よい人になろうとする努力や、よい行い、哲学思想、宗教などでは決して洗い流すことはできません。なぜなら、それは人間の本質の一部だからです。

罪の性質をもつ私たち人間にとって、神からの「超自然的なきよめ」だけが唯一の希望です。神のひとり子イエスが十字架で流された血潮だけが、人間の罪の問題に根本的な解決を与えてくれるのです。

感謝なことに、私たちはイエスに信頼したことで、過去、現在、未来にわたるすべての罪がゆるされ、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられました。それらはイエスを心に迎えた人たちへの神からの愛に満ちた贈り物です。そして、神が子とされた私たちを裏切り、見捨てることは決してありません。

けれども、神の子どもとして生きることは罪の問題がなくなるということではありません。イエスと親しく歩むことで、かえって罪に敏感となり、自分が「罪びと」であることをより意識することもあるのです。このような体験はだれにでもあることです。

しかし、毎日の生活の中で自分の罪に適切に向き合わないと、神の子どもとしてのふさわしい心の状態ではなくなることもあるのです。

三種類の霊的状態

1コリント2:14-3:3 には、神の視点から見た人間の3つの霊的状態が描かれています。

1. 生まれながらの人

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」※1

「生まれながらの人」とは、まだクリスチャンではない人の状態をあらわしています。

この人は、まだイエスを罪からの救い主として受け入れていません。神の視点では罪の中に死んでいて、聖書の真理もさっぱり理解できません。自分の力だけで生きていて、神の愛とゆるしを体験することもありません。

2. 御霊に属する人

御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。※2

御霊を受けている人、あるいは「御霊に属する人」※3とは、イエスに導かれた生活をしているクリスチャンの状態をあらわしています。

この人は、イエスを罪からの救い主として受け入れ、神の子どもとして新しく生まれています。心の王座(中心)を自我にではなくイエスに明け渡し、神の愛と力を絶えず受け取っています。聖書を読むことで、神の愛と目的がより分かるようになり、神に従う結果として、神が願う実を徐々に結ぶようになります。

3. 肉に属する人

「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。」※4

「肉に属する人」とは、自我に導かれた生活をしているクリスチャンの状態をあらわしています。肉に属する状態とは、罪深い性質の影響や特徴に支配されている状態です。

この状態でも、イエスを罪からの救い主として受け入れ、神の子どもとされたクリスチャンであることに変わりはありません。しかし、この状態のクリスチャンは、基本的には自分の力により頼んで生きていて、心をおさめているのは神ではなく「自分」です。

表面的にはクリスチャンらしくみえても、心では自分の願いばかりを求めていて、内なる聖霊の働きを拒むこともしばしばです。当然、神が望んでおられるような人に内側から変えられることもありません。そして不幸なことに自分が肉に属していると気付かない場合が多いのです。

分裂の原因

以前、あるクリスチャン実業家が、私を訪ねてきたことがありました。彼は自分の教会が分裂しそうだと悩んでいました。「教会員の半分が教会を出て、別の教会を始めようとしているのです」と彼は言いました。私はそれを聞いて悲しくなりました。クリスチャンの群れが争い、分裂することほど痛ましいことはないからです。

その実業家と話し合っているうちに、彼は自分が肉に属するクリスチャンであることに気づくようになりました。私は「神はあなたが御霊に属する人になるよう備えてくださったのです」と言って、どうすれば御霊に属する人になれるのかを説明しました。彼は、自分の罪をゆるしてください、そして聖霊に満たしてください、と心から神に願いました。

いっしょに神の愛とゆるしを体験したことを喜んでいると、彼はこう私に言いました。「もう私の教会では分裂は起こらないでしょう。いま気づいたのですが、分裂を引き起こしている一番の原因は、私の強すぎる主張にあったのです。」

神の備えた解決の道

神は、ご自身の愛する子どもたちが肉に属した惨めな状態で生きることを、望んでおられません。罪の束縛から自由にされ、御霊に属する状態で生きることを願っておられるのです。では、神の備えた解決の道はどのようなものでしょうか。

まず心にとめるべきことは、人間的な努力では根本的な解決に至らないということです。多くの場合、内面の罪との戦いは挫折に終わることでしょう。

ローマ8:7には「肉の思いは神に敵対する」とあります。どんなに努力しても、人には罪の性質があり、肉の思いをなくすることはできないのです。努力や頑張りはそれ自体、悪いものではありません。けれども、神に反抗する罪の性質から私たちを自由にする道ではないのです。

このことを思うとき、私の心は軽くなります。私にはできない、それでいいのです。ただイエスだけが、この罪の性質から私たちを自由にする道であり、力なのです!

神は私たちの信仰を喜ばれます※5。私たちは信仰によって、罪の力に打ち勝つイエスの力を体験することができます。

信仰とは、感情や気分ではありません。単なる信じる心の強さでもありません。聖書がいう信仰とは「信頼」のことです。信じる心の強さより「何に信頼を置いているのか」がとても重要です。

氷の厚さと信仰

私たちは何でも信じればいいというものではありません。そのような信仰は、信仰心自体に信頼を置いているようなものです。

たとえば、ある人が冬、池の氷の厚みが十分で、氷に乗っても、氷が自分の体重を支えることができると、確信したとしましょう。その人は自分の確信に基づいて、薄い氷の上に飛び込んだとします。さあ、どうなるでしょう。もちろん、氷は割れてびしょぬれ、もしかすると溺れ死んでしまうかもしれません。

ではその逆に、氷が厚いかどうか、あまり確信を持てない人がいたとします。その人は、 実際の氷はとても厚いのに、ゆっくりと少しずつ体重を氷に乗せながら進んでいくことでしょう。そのうち、池の氷が自分を支えるに十分な厚さがあると悟ったなら、自分を支える氷に対する確信もより強くなってくるでしょう。

クリスチャン生活もそれと同じです。私たちは信頼に値する神と神のことばに信頼します。最初はそれほど大きな信仰ではないかもしれません。けれども神を知れば知るほど、より神の支配に自分をゆだねることも多くなり、神にゆだねることが多くなればなるほど、神の恵みの働きをリアルに体験するようになるのです。信仰は筋肉に似て、使うことによって成長するのです。

霊的呼吸

あなたが今、自分が肉に属している状態だと気づいたとしましょう。そこから御霊に属する状態になるためにはどうしたらよいのでしょうか。ここでは「霊的呼吸」という覚えやすい概念で、その方法をお伝えしたいと思います。

人が生きるためには呼吸が必要です。呼吸は体にとって汚いものを吐き出し、きれいなものを吸い込む大切な機能です。霊的に神の力を体験するにもそれと似たことを続ける必要があります。

吐き出す (罪の告白)
霊的に「吐き出す」とは「罪を告白する」ということです。聖書にはこのように書かれています。

「もし私たち(クリスチャン)が自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪をゆるし、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」※6

「告白する」という言葉は、原語では「同意する」という意味です※7。つまり、神があなたに気づかせた罪に同意するというニュアンスです。この同意には少なくとも、次の三つの要素が含まれます。

① あなたの犯した罪が悪いことであり、神を悲しませていることに同意する。

② イエスの十字架のゆるしは完全であり、神はあなたをすでにゆるしていることに同意する。

③ 神の方に方向転換する(悔い改める)必要があることに同意する。

このことは、聖霊に頼りつつ、その罪に対する態度と行動の変化に向き合うことを意味 します。

罪を告白することから霊的呼吸のプロセスが始まります。そして、霊的に「吸い込む」 (聖霊の満たし)ことによって、肉に属する状態から御霊に属する状態へと変えられていきます。このことについては「聖霊に満たされるには」の記事で詳しく扱います。

ゆるしの根拠

ところで、私たちのゆるしの根拠はどこにあるのでしょうか。告白という行為が、ゆるしをより確実にするのでしょうか。いいえ、そうではありません。ゆるしの確実性は、イエスの十字架上での「ただ一度の犠牲」※8 に基づくからです。

ではなぜ、神の前で罪を告白する必要があるのでしょうか。罪の告白は、神との関係を大切にしていることの表現であると同時に、神の約束を受け取るために必要な行為でもあります。

先ほど見た、聖書の約束です。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪をゆるし、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」※9

罪の告白は「ゆるし」 と「きよめ」をもたらします。イエスの死によって完成されたゆるしの効果が、神によって私たちのうちに現実の体験としてもたらされるのです。

「罪を犯している」という神の静かな語りかけに同意しないで歩み続けるのなら、私たちは肉に属する状態となり、神のゆるしと光の中を歩むかわりに、罪と闇の中を歩むようになることでしょう※10。

あなたも罪を犯したことがあるでしょうか。その罪に対して、神のゆるしをあるいはまだ体験していないでしょうか。

友人や家族のだれかに腹を立てているでしょうか。神との関係に喜びはないと感じ、聖書を読んだり祈ったりすることをやめてはいませんか。福音を伝える働きには意味がないと考えたりしていないでしょうか。たとえそれが小さな罪であっても、神の愛と力が私たちにあふれる妨げとなることもあるのです。

水道管を凍らせた氷

ある冬の寒い朝、キッチンの蛇口から水が少しも出なくなりました。どうやら途中のパイプのほんの一部が凍結してしまい、水はそこまで来ているのに、その小さな氷のせいで、私たちのもとに水は届きませんでした。私は部屋を暖め、凍結した部分の氷を溶かしました。そうすることで、いつものように蛇口から水は勢いよく流れ出てきました。

罪の告白を拒み続けることは、凍結したパイプをずっとほっておくようなものです。それは神の恵みの力が私たちに届くのを妨げます。

もちろん告白しない罪があっても、あなたへの神の愛は変わりません。あなたの罪はイエスの身代わりの死によってすでにゆるされています。

あなたは神の子であり、永遠のいのちを持っています。神はあなたを永遠の愛で愛しています。ですから、「叱られる」とおびえることなく、ただ神のもとに行き、心に示される罪を告白しましょう。神はその罪をゆるし、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。

神の愛とゆるしを体験するためのステップ

神の愛とゆるしを体験するのに役立つステップを紹介します。

1. 心に浮かぶ罪を紙に書き出す
聖霊に、あなたの生活にある罪を示してくださいと祈りましょう。紙とペンを取り、心にうかぶ罪を一つずつ書き出してみましょう。書きながら、それぞれの罪を神の前で告白しましょう。

この作業をしながら、神の前で心からへりくだることを学んでください。静かな場所で、十分に時間をとることをお勧めします。このリストは、あなたと神との間だけのものです。ですから正直に、すべての罪を神に告白しましょう。リストには、たとえば以下のようなことが記されるかもしれません。

・ 神への初めの愛を失っている
・ みことばに聞き、祈る時間をあまりとっていない
・ イエスのことを伝えていない
・ 神に信頼して生活していない
・ 奉仕に不純な動機がある
・ プライドゆえに他の人を傷つけた
・ 誠意を欠き、うそをついた
・ だれかを中傷するような話を広めた
・ 性的不品行、嫉妬、憎しみ、利己心、破壊的な怒りなど

2. リストの全面に神の約束を書く
書き終えたら、罪のリストの全面を覆うように大きく、Iヨハネ1:9の神の約束を書き写してください。 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪をゆるし、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」 ※11

3. リストを破り捨てる
祈りつつ、信仰によって神のゆるしときよめを受けたことを感謝したなら、そのリストを破り捨てましょう。これはゆるしを視覚的にとらえるためです。

4. つぐないをする
最後に、もし他の人に関することでつぐなうべきことがあるのならそうしてください。たとえば、だれかを言葉や態度で傷つけていることに気づかされたなら、心から「ごめんなさい」と謝りましょう。

つぐないがどの程度できるかは、状況にもよるでしょうが、だれかに対して良心のとがめを持っているのなら、神の前でやましくない良心を保って生きることは難しくなるでしょう。罪の告白につぐないが含まれることがあるのは、そのような理由もあるのです。

以上のようなプロセスで罪を告白した後にも、まだ罪責感が残ることがあります。そのようなときの罪責感は、神からくるものではありません。それはあなたのたましいの敵である悪魔からくるものです。

なぜなら「東が西から遠く離れているように、主は私たちの 背きの罪を私たちから遠く離される」※12 と、神は約束しているからです。神のゆるしは完全です。

たとえ悪魔が「お前の罪はゆるされない」とあなたを責めたてたとしても、真実な神の約束に信頼し、十字架の完全なゆるしをしっかりと握りしめて生きていきましょう。

自分の犯した罪に正直に向き合い、信仰によって神の愛とゆるしを受け取りましょう。御霊に属する(聖霊に満たされた)クリスチャン生活は、そこから始まるのです。

[著者紹介]ビル・ブライト(1921-2003年)実業家であり、フラー神学大学院の大学院生であったビル・ブライトは、将来社会を導くリーダーに福音を届けるビジョンをもって、妻のヴォネットとカルフォルニア大学ロサンゼルス校で伝道を開始。このムーブメントが全米、世界各国に広がった。ビルとヴォネットは、国際キャンパス・クルセード・フォー・クライストの創設者であり、長年総裁を務めた。多くの著書、小冊子が多数ある。本稿はビル・ブライト博士の著作 “How You Can Experience God’s Love and Forgiveness”の日本語短縮版

脚注: (1) 1コリント2:14 (2) 1コリント2:15,16 (3) 1コリント3:1 (4) 1コリント3:1-3 (5) ヘブル11:6 (6) Iヨハネ1:9 (7) 「告白する」の聖書原語ギリシヤ語は「ホモロゲオー」という言葉です。すなわちホモ(同じ)+ ロゲオー(言う)。すなわち神と同じことを言う。同意するという意味です。 (8) ヘブル10:10 (9) Iヨハネ1:9 (10) Iヨハネ1:7-10 (11) Iヨハネ1:9 (12) 詩篇103:12