もっと 肩の力を抜いて

多くのクリスチャンがそうであるように、あなたも自分の人生で神に喜んでもらいたいと願っていませんか。しかし正直なところ、クリスチャンとして生きることに疲れを感じることもあるかもしれません。また良いクリスチャンになることに、プレッシャーを感じることもあるでしょう。

私がクリスチャンになる前、罪を犯すことに何の問題も感じませんでした。罪の意識もなく、罪悪感も感じませんでした。しかしイエスを信じたあと、神が望んでいない行動を、私がしてきたことに気がつきました。

人を愛すること、聖書を読むこと、祈ること、証しをすることの意義も、意識するようになりました。「信じる前の方が、もっと生きるのが楽だった…」ときには、こうも考えたものです。

神と出会った今、私は「自分の人生で神を喜ばせたい」という大きな責任を感じています。「聖書の教えを私も実行してみたい」と素直に思えるようになりました。しかし同時に「もっと頑張らなければ…」とも考えるようになりました。

幸い私は聖書から、過剰な責任感や、強い成果主義に陥る必要がないことを学びました。それ以来、私は神を見上げて、神との関係を楽しめるようになったのです。

聖書的原則

聖書によると、神は私たちに完璧さを求めてはいません。神は、あなたがミスをすると、減点するようなことはしないのです。私たちは自分の力で、クリスチャン生活を送ることはできません。神の合格点に、自分自身の努力では到達することはできないのです。もし自分の力で神の基準に達することができるならば、イエスが十字架で死ぬ必要はありませんでした。

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」※1

クリスチャンは信仰によって、罪から救われました。罪がゆるされ、義と宣言され、神の目に尊い存在とされたのです。たとえクリスチャンが罪を犯したとしても、無条件に愛されています。

負のジレンマ

ただクリスチャンであっても、私たちはこの信仰のよる救いを忘れてしまいがちです。罪の問題を自分の努力で埋め合わせて、神に近づこうとします。「神の救いへの恩返しをしなければ…」と考えるのです。自分の力で頑張ろうとすると、「自分にはできない」という負のジレンマに陥ります。

ある人は「できない自分」に直面すると「神はそこまでは厳しくないのでは…」と神の基準を下げて、妥協的なクリスチャン生活を送るようになります。またある人は「もっと頑張って、神に近づかなくては…」と自分の力で努力しようとします。自分の努力でクリスチャン生活を頑張ろうとするとき、キリストを知った喜びはなくなります。

皆さんには、もっと肩の力を抜いて、クリスチャン生活を楽しんでほしいのです。そこで本稿では、神とあなたとの関係について、聖書がどのように約束しているかを、ご一緒に見ていきましょう。

救いを見つめ直す

あなたがクリスチャンになったとき、神の側では具体的に何をしてくれたのでしょうか。

●神は、世界の基が据えられる前から、イエスにある者としてあなたを選んでいました。※2

●神はそのひとり子イエスをあなたのために送りました。※3

●神の御子イエスが、あなたの罪の身代わりに十字架で死にました。※4

●神は他のクリスチャンを遣わして、あなたが福音を聞けるようにしました。※5

●神はあなたの人生をともに歩みたいと語りかけました。※6

●あなたがイエスを信じたいという願いを与えたのも神です。※7

●あなたの人生は自分勝手な道から神の方に向き変え、イエスを受け入れました。

●イエスはあなたの人生をともに歩み、あなたを義と認め、罪をゆるしました。

●あなたを神の子どもとして迎えました。※8

あなたがクリスチャンになったのは、ただ信仰によって、神に応答したからです。それと同じように、クリスチャン生活もただ信仰によって送ってほしいと、神は願っています。あなたを霊的に成長させる責任は、神の側にあります。

しかし、多くのクリスチャンが「自分の力で頑張らなくては…」と考えます。それはなぜでしょうか。

クリスチャンも頑張る必要がある?

多くの人は「自分で頑張って、良いクリスチャンにならなければ」と考えてしまいます。もしかすると、周りからの無言の圧力や、過剰な期待で「頑張らなくては」と考えるのかもしれません。しかし自分の力で「良いクリスチャン」になろうとすると、すぐに救いの喜びはなくなります。強迫観念で窮屈になります。

神のために頑張る必要はありません。私たちと神との関係は、あなたの行動によって決まるものではありません。神との関係は、神ご自身の変わらない愛に根拠があるからです。

神に受け入れられている

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることがないためです。」※9

私たちが救われたのは、ただ神の恵みによります。そして神の恵みである、イエスの十字架の贖いを信じたことで、罪のゆるしの贈り物を受け取ったのです。自分の努力で、獲得したのではありません。あなたは、神のゆるしの宣言をただ信じただけです。

「このキリストにあって、私たちはその血の贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」※10

では、あなたがクリスチャンになったからといって、ルールは変わるのでしょうか。神が急に、救いのハードルを上げたのでしょうか。

律法を完全に守れる人はいない

確かに、聖書にはたくさんの倫理的な命令が書かれています。しかし神は人に命令を与える一方で、人はだれ一人として、聖書の命令を完全に守ることができないことも教えています。

一生懸命、頑張るほど、自分は失敗者だと感じます※11。人はだれも100%完璧に律法を守ることはできないのです。そして少しでもミスをすると、きっと神の裁きを受けるに違いないと考えるようになります。すると神との間に、距離を感じるようになるのです。

使徒パウロも、この葛藤について説明しています。「律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。」※12 そこでパウロは、聖書の律法の通りに生きようと努力しました。

しかしパウロはそれでも、罪を犯してしまう現実に直面します。パウロはこう語ります。「私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私はしたいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」※13

続く箇所で、葛藤を感じながらパウロはこう語ります。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」※14

パウロはこの失敗、罪、自己嫌悪からどのように解放されたのでしょうか。続く箇所に書かれています。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」※15

「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。」※16

信仰にこそ解決がある

神の命令を読むとき、自分の努力でそれを守ろうとしてはいけません。むしろ、あなたの内に住む神、聖霊にみことばに従う実を結ばせてくれるように願うのです。

たとえば神は「互いに愛し合いなさい」と命令しています。私たちは自分の力と責任で、人を愛そうとしてはいません。 むしろ神に信頼して、こう祈ってください。

「イエスさま、私の心の中で、私を通して、あなたが生きてください。あなたが見ているように、この人を見ることができますように。あなたが愛するように、私も愛せますように。私の力では、人を愛する力はありません。あなたの大きな愛が、私の心から湧き出してくるように助けてください。」

人生の主導権をキリストにゆだねる

自分の力で、神を喜ばせようとする人生と、イエスにあなたの人生を生きてもらう人生。その違いは何でしょうか。私たちは、神に頼ることなく、霊的に成長することはできません。神への信頼関係が深まることが、信仰の成熟です。

神との時間を楽しみ、神への信頼を深めていきましょう。あなたが肩の力を抜き、神の愛をリラックスして楽しむことを、神は望んでいます。神は、あなたが神のためにする行動を期待しているわけではないのです。

聖書では神の命令を「律法」と呼んでいます。クリスチャンになった今、あなたはもはや律法の下にはいません。また、神の裁きの下にもいません。むしろ、あなたは神のゆるしと永遠のいのちを受けているのです。すでに律法の要求から解放されているのです。

パウロはこう語ります。「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるのです。というのは、…律法を行うことによっては義と認められないからです。」※17

聖霊とともに生きる

「私は、神に生きるために、律法によって死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。…キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」※18

パウロはむしろ、律法を守ろうとする自分に死にました。自分の頑張りで律法を守ろうとするモードのスイッチを切ったのです。むしろ、心のうちにいるイエス、聖霊に生きてもらうモードのスイッチをONにしたのです。

神は語ります。「わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書き記す。」またその続きには「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」※19 と神は語っています。

もはや神の律法が、あなたの外側から、それを守るように要求を突きつけるわけではないのです。神は律法をあなたの心の中に置いて、聖霊があなたの心を変え、神が喜ばれる行動を取りたいと、自然と願うように導くのです。神との関係が深まるにつれて、神の前で聖い生活を送りたいと願うようになります。また神に喜ばれる生き方をする力も、神から与えられるのです。

神の使命に生きる

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」※20

神はあなたの人生に計画を持っています。人のために、また神の栄光のために、神はあなたの人生を用いるのです。神のいのちが今、あなたの内にあり、神はあなたの中で、良い働きを生み出しています。頑張ってあなたが道を切り開かなくても、神がその良い行いも事前にあなたのために用意しているのです。

でも頑張らないと…

でも特定の罪から解放してくれるように祈っても、すぐに私たちはまた同じ罪を犯してしまうのは、なぜでしょうか。なぜ短気はすぐに直らないのでしょうか。祈っても、すぐに誘惑に負けてしまうのはなぜでしょうか。祈りたくても、祈れないのはなぜでしょうか。聖書は大切だとわかっていても、なかなか聖書を読む気になれないのはなぜでしょうか。やはり頑張りが足りないのでしょうか。

答えは「いいえ」です。

神のために頑張ろうとした瞬間に、自分の失敗が目に入ります。自分の力で頑張ろうとすると、神との間に微妙な距離ができ、喜びはなくなります。

「自分が頑張らないと…」と考えるのは自然なことです。なぜなら社会全体が努力を美徳と持ち上げるからです。努力するならば、必ず報われる…。世間はこう訴えます。

クリスチャンも、聖書の命令を見て「そうだ。自分も一生懸命やれば、必ず報われる」と考えがちです。しかし聖書の律法だけに注目すると、必ずできない自分に失望するジレンマに陥ります。

「あなたがこれだけ頑張ったから、ご褒美にあなたとの関係を良いものにしよう」とは、神は語ってはいません。むしろ、あなたが神を信頼する中で、神との関係が深まることを、神は望んでいるのです。神に信頼するとき、神を喜ぶ実があなたの人生に結ばれます。

罪に気づいたら

この地上で生きている限り、人は罪を犯します。この地上での人生で、人が完全になることはありません。人はみな罪人です。神も人はみな完全ではないことを知っています。自分が罪を犯したことに気がつくとき、その罪を告白して、神のゆるしの約束を受け取ってください。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」※21

たとえ同じ罪を繰り返しても、あきらめないでください。根気よく、罪を告白する祈りをしてください。時間が掛かるかもしれません。らせん階段を登るように、ぐるぐる回っているだけに感じるかもしれません。しかし、らせん階段が上に向かって登って行くように、少しずつ罪から離れることができます。

あなたを変える神

私たちの力は、神を知ることに集中させましょう。祈り、聖書を読み、他のクリスチャンと交わり、イエスを証しすることで、神を深く知ることができます。

神を知る機会を積極的に設けましょう。しかし、このことは覚えておいてください。信仰は、自分の努力で成長できるものではないのです。信仰の成長は、人生に働きかける神の力によります。

イエスはこのことを、ぶどうの木のたとえで説明しています。イエスがぶどうの幹で、私たちは枝です。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」※22

イエスはまたこう言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」※23

イエスの命令に従うとは?

「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに語りました。」※24

あなたが神のことばに従うとき、神の愛を体験します。神が語ることを、肩の力を抜いて実行するとき、喜びを味わいます。神の命令に従うとは、自分の力で頑張ることではありません。神に信頼して、神の語る方向に一歩踏み出すことです。

ちょうど電動自転車に乗るときのようです。目的地に向かって、ペダルを漕ぎ始めると、電動アシスト機能が動き出します。足で踏ん張って漕がなくても、わずかな力で前に進んでいきます。同じように、一歩踏み出したら、あなたのうちに住む聖霊が従う力を与えてくれます。

聖霊に生きてもらう

聖書の中で神が「これをしなさい….」と語ることばを見つけると、私はすぐにこう祈るようにしています。

「神さま、私は神を喜ばせる人生を送りたいです。聖霊を通して、この聖書のことばを、私の人生に組み込んでください。あなたに従う力を与えてください。神さま、もし私が自分の力で頑張ろうとすると、私は失敗します。私がこの聖書の約束に生きられるように、私の考え方を変え、私に働きかけてください。」

こう祈ると、心配はなくなります。それから、その聖書箇所を手帳に書き出して、じっくりと学び、黙想します。ときには暗誦することもあります。その聖書のことばを実行する信仰は、あくまでも神から来るからです。

神は「律法を守らなくては…」という強迫観念から解放してくれます。あなたは神の中で安らぎ、神に頼れば良いのです。神を知り、神との親密な交わりを楽しむように、神はあなたを招いています。

最後に、関連するいくつかの聖書のことばを紹介します。皆さんが聖霊とともに、肩の力を抜いて、神との関係を楽しむものとなるようにお祈りします。

「ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。」※25

「しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよろず、新しい御霊によって仕えているのです。」※26

「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。」※27

「しかし、働きのない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」※28

聖霊とともに生きる人生に関しては「クリスチャン生活の秘訣」の記事をご覧ください。

また「三位一体とは何か?」の記事もお読みください。

著者紹介

脚注:(1) ローマ5:1,2 (2) エペソ1:4; 2テモテ1:9 (3) ヨハネ3:16 (4) ローマ5:8 (5) エペソ1:13 (6) 黙示録3:20; ヨハネ1:12,13 (7) 黙示録3:20 (8) Iヨハネ3:1; コロサイ1:13,14; エペソ1:4; ヨハネ1:12 (9) エペソ2:8,9 (10) エペソ1:7 (11) ローマ3:20 (12) ローマ7:12 (13) ローマ7:18,19 (14) ローマ7:24,25 (15) ローマ8:1 (16) ローマ5:8-10 (17) ガラテヤ2:16 (18) ガラテヤ2:19-21 (19) ヘブル10:16,17 (20) エペソ2:8,9 (21) 1ヨハネ1:9 (22) ヨハネ15:4 (23) ヨハネ15:9 (24) ヨハネ15:10,11 (25) ローマ7:4 (26) ローマ7:6 (27) ローマ10:4 (28) ローマ4:5