クリスチャン生活の秘訣

クリスチャン生活には欠かすことができない「聖霊の満たし」について、一緒に学んでいきましょう。

クリスチャンとして生きることは、一見、不可能に見えるほど、基準が高い生き方が求められます。クリスチャン生活を自分の力で生きようとすると、確かに不可能です。本稿では、クリスチャンとして無理せず、むしろ楽しんで生きる秘訣をお伝えします。

私たちはとかく、自分の頑張りで、クリスチャン生活を送ろうとします。いわゆる「頑張るクリスチャン」は、陸上の引き揚げられた船のようです。船は、陸上では航行できません。船は水上ではじめて、自由に運航できるのです。クリスチャンとしてイキイキと生きるためにも、神の力のうちにとどまり続けることを学ばなければなりません。

パウロも同じことを語っています。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

イエスとともにイキイキと生きる秘訣は、私たちの人生をキリストご自身に生きてもらうことです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20)

イエスは十字架につけられる前夜、ご自分が弟子たちから離れることを伝えました。たとえイエスが離れて行っても、弟子たちが孤児になることはありません。

「しかし、私は真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(ヨハネ16:7)

あなたには助け主、すなわち聖霊なる神が心に与えられています。聖霊は私たちに、クリスチャンとして勇敢に生きる力を与えます。聖霊は単にビジターセンターの係官のように、カウンターで地図を広げて、天国への道がどれかを伝えるだけではありません。聖霊はイエスの霊です。あなたのうちに住んでいます。レンジャーのように、あなたと一緒に、あなたを導き、天国への登山道をともに歩んでくれるのです。

聖霊とはだれか?

聖霊とは神です。父なる神、子なるキリストと同じ、三位一体の神です。聖霊なる神については、多くの誤解があります。聖霊は人格(位格)を持っています。人格を持つ聖霊は、意志や感情も持っています。

聖霊は、父なる神、子なるキリストとまったく同じ、性質を持っています。聖霊も全能で力に満ちた方です。聖霊は全知である方、すべてをご存じです。聖霊も変わることのない、永遠の神です。聖霊は、三位一体の神の第三位格です。

聖霊は何のために私たちのうちにいるのでしょうか?

聖霊は、あなたとともに人生を歩んでくれます。ここでは、聖霊の役割を見ていきましょう。

聖霊が私たちに罪を自覚させます。福音に対して渇望する心も、聖霊が与えます(ヨハネ16:8-11)。聖霊の助けがなければ、私たちは聖書を単なる作り話としか思えませんでした(1コリント1:18)。周囲の人には、あなたがイエスを信じたことを、正気の沙汰とは思えないことでしょう。しかし聖霊が、あなたにクリスチャン生活のすばらしさを明らかにしました。もはやあなたには、聖書が単なる作り話とは思えないようになったのです。

聖霊は、私たちに新しい人生を与えます。イエスはこう語ります。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:6) 聖霊によって、神の愛が心に注がれます(ローマ5:5)。聖霊は私たちに、クリスチャンになったという内なる確信を与えます(ローマ8:16)。

聖霊は教師でもあります。聖霊が、聖書の真理へとあなたを導きます。聖霊が聖書を説明して、その真理を理解させ、生活に適用させ、実践できるように助けます (ヨハネ16:13,14)。

聖霊は、あなたがイエスのことを語るとき、聞く人々の心に直接、語りかけます(使徒 1:8)。

私たちがどう祈ったら良いのかわからないとき、聖霊が私たちのためにとりなし、祈ってくれます(ローマ 8:26,27 )。

聖霊は、あなたがクリスチャンとしてイキイキと歩めるように、イエスによって遣わされました。パウロはこう語っています。「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがのうちに住んでおられる…。」(ローマ8:11) 聖霊の力によって、私たちはクリスチャンとして生きることが可能になるのです。

ここまで読んで、あなたも「聖霊がほしい」と思ったかもしれません。しかしあなたがイエスを信じたのであれば、聖霊はすでに心の内に住んでいるのです。「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちではなく、御霊のうちにいるのです。」(ローマ8:9)

聖霊は、あなたの内に住んでいます。しかしあなたが、必ずしも「聖霊に満たされている」とは言えないのです。聖霊は確かに、あなたのうちに住んでいますが、必ずしもあなたの人生の「王」にはなってはいないのです。

パウロは、クリスチャンを2種類に分類しています。
①「聖霊に導かれたクリスチャン」そして
②「肉に属するクリスチャン」です。

1. 聖霊に導かれたクリスチャン

聖霊に導かれたクリスチャンは、神に信頼しています。神の語りかけに従って生きていこうと願っています。「キリストの心」を持っているからです(1コリント2:16)。この聖霊に導かれている状態が「聖霊に満たされたクリスチャン」なのです。

聖霊に導かれたクリスチャンは、キリスト中心に生きています。だからといって、罪がなくなるというわけではありません。毎日、問題や誘惑に直面します。しかし聖霊に満たされたクリスチャンは生活の細部、問題の只中で、キリストに信頼します。聖霊に導かれたクリスチャンの最大の願いは、イエスを喜ばせることです。周囲の人々の評価や人の目が、気にならなくなります。

2. 肉に属するクリスチャン

肉に属するクリスチャンとは、自分の努力と考えに従って生きています。

「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。」(1コリント3:1-3)

肉に属するクリスチャンも、イエスを信じて救われました。しかし自分自身と、目の前の必要に従って生きています。肉に属するクリスチャンは、聖霊の働きかけに反発し、無視します。心に宿る聖霊の導きを抑えつけます。

では、肉に属するクリスチャンは、聖霊に導かれたクリスチャンとどこが違うのでしょうか。肉に属するクリスチャンも、聖霊を受け入れてはいます。しかし人生に働きかけるキリストの力に、頼ることはできないのです。むしろ、自分の努力で歩もうとします。それはちょうど、車を運転するのではなく、運転席からおりて、両手で車を後ろから押して、町中を練り歩くようなものです。

聖霊に満たされる

聖書は、聖霊に「導かれる」必要を語っています。聖霊の導きに従うとは、聖霊が語ることに従うことです。聖霊は祈り、聖書を読む中で、私たちに語りかけます。

私たちは、たとえ神であっても、だれかに指示されることが好きではありません。聖霊に満たされるとは、聖霊が語ることに従うことです。

私たちは瞬間ごとに選択が迫られます。聖霊に従うのか?自分で物事をコントロールするのか?この2つの選択です。

聖霊に満たされるとき、聖霊は私たちの考えと行動を導きます。聖霊に満たされるとき、憎しみや恐れ、心配で心が支配される余地がなくなるのです。

「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ5:17,18)

アルコールとは違い、聖霊による変化は人為的なものではありません。聖霊が結ぶ実は、キリスト中心の人生から生み出されます。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です…。」(ガラテヤ5:22,23)

どのように聖霊に満たされるのでしょう?

聖霊に満たされるか、満たされないかは、あなたの選択です。聖霊に満たされるのは、あなたが心からそれを願うとき、与えられます。自動的に与えられるものでもありません。たとえば、お酒に酔うのも、何もせず自動的に酔うことはありません。お店で年齢認証をしてアルコールを購入し、飲酒をしなければ、酒に酔うことはありません。

クリスチャンの場合も、聖霊に満たされて、さらに聖書を読み、周りのクリスチャンと交わりたくなります。もし、あなたが聖霊に満たされたいと願うならば、以下のように祈ってください。信仰によって、聖霊に満たされることができます。

「神さま、私はあなたを必要としています。私は今まで自我に導かれた生き方をしてきて、あなたに対して罪を犯しました。私の罪をゆるしてください。イエスさまが私の身代わりに十字架で死んでくださり、私の罪をゆるしてくださったことを感謝します。私は今もう一度、イエスさまが私の心の王座に来てくださることを願います。聖書の約束に基づいて、私を聖霊に満たしてください。イエスさまの似姿に向けて、私を成長させてください。アーメン。」※1

このようにあなたが今、祈ったのなら、あなたは聖霊に満たされています。たとえ聖霊の満たしを実感できなくても、聖書が約束しているのです。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」(1ヨハネ5:14,15)

ある人は、聖霊に満たされるとき、宗教的な何か神秘的な体験をすることを期待したかもしれません。聖霊の満たしは、神秘体験ではありません。信仰による決断です。まず神が私たちを聖霊で満たしたいと願っています。この聖書の約束に、信頼しましょう。感覚や感情を根拠としてはいけません。

3つの質問

聖霊の働きは、クリスチャンにとってはなくてはならないものです。
皆さんにとって、疑問があるかもしれません。ここでよくある、3つの質問とその答えをみていきましょう。

1. なぜ多くのクリスチャンは聖霊に満たされていないのでしょうか?

多くのクリスチャンが、聖霊に満たされていないのはなぜでしょうか。罪とは「神に従わないこと」を選ぶことです。罪はプライドから来るのです。「自分のやりたいようにしたい」という心から、罪が出てきます。

財政面で神のコントロールを受けなければ、お金を稼ぐことだけに一生懸命になり、お金が逆に自分をコントロールします。人間関係を神に委ねなければ、どうして人をゆるせるのでしょうか。私たちには、人生の主権を神に委ねることが、非常に難しいものです。人生の主権を自分で握っていたいのです。それが、私たちのうちに根づくプライドです。

「嘲る者を主(神)は嘲り、へりくだった者には恵みを与えられる。」(箴言3:34)

罪とは言葉を換えると恐れです。箴言は語ります。「人を恐れると罠にかかる…。」(箴言29:25a)

神は今日、あなたに何を願っているでしょうか。しかしあなたが人の目を気にして、神の願っていることを行わないとすると、どうでしょうか。私たちは、こう考えるものです。「私にはそんなことはできない。」「そんなことをしたら、人からバカにされるだろう。」「神は、本当にこうすることを願っているのだろうか…。」しかし神が願うことは、私たちが神のことばに従うことです。

箴言29:25の後半ではこう書かれています。「…しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(箴言29:25b)

人々からの賞賛を、私たちは求めるものです。しかし私たちが本当に期待していることは、神からの賞賛を受けることではないでしょうか。神に従うとき、私たちの生き方は周囲とは違うものになります。でも人と違っても、神に従う人生は価値あるものです。

2. 聖霊に満たされてからも、罪に陥ることがあり得るのでしょうか?

この質問の「罪」が何かにもよります。もし意識して罪を犯すことを選び続けるならば、聖霊はあなたの人生を導くことができなくなります。同時に「聖霊に満たされることを知ったのちも、不用意に罪を犯すことがあり得るのか」という質問だったら、答えは確かに「あります」。

1日のうちでも、何度も同じ罪を犯し、罪を告白する祈りをすることはあるのです。それはあなたが霊的に弱いからではありません。むしろ聖霊があなたのうちに働いている証拠なのです。その行為が罪だと知ることで、「霊的呼吸」をして、罪を取り扱うことができます。

「霊的呼吸」
「霊的呼吸」とはまず「吐き出す」ことから始まります。霊的に「吐き出す」とは具体的には、神にその罪を認める祈りをすることです。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

その行為が罪であることをまず、神に認めます。罪を犯すことで、キリストが座っていた心の王座を、あなたの自我が奪い取ったことを認めるのです。

霊的に「吐き出す」ことで、汚い罪を取り除きます。そしてイエスの十字架の死によって、罪がゆるされることを確認して、感謝します。

「霊的呼吸」では、霊的に「吸い込む」ことも行います。「吸い込む」とは、神に再度、聖霊に満たしてくれるように求めることです。聖霊が、あなたの人生を導くことを求めましょう。あなたが罪を犯したとしても、神はあなたを見捨てません。聖霊の導きを無視したことを認め、再び聖霊の導きに従いましょう。

聖霊に信頼して生きることを学ぶのには、時間がかかります。罪に陥ったとしても、失望しないでください。罪に気づくたびに、忍耐をもって罪から立ち返ることを学んでください。

我が家には、3人の子どもがいます。一番下の子どもが歩き出したのが、数年前のことです。彼女が歩くまでに、時間が掛かりました。一歳の誕生日にも、まだ彼女は自力で立ち上がれませんでした。ハイハイで動き回り、つかまり立ちが何とかできる程度でした。

数ヶ月後、一人で立ち上がり、歩き出したときは、数歩だけで転ぶ、何とも心もとない歩き方でした。水溜りに転び、泥んこになることもありました。テーブルに激突し、洗濯カゴに突っ込むこともありました。でも娘は歩くことをあきらめませんでした。

少しずつ、歩く歩調も確かなものになり、力強くなりました。今でも転ぶこともあります。しかし自分の足で、長い距離をしっかりと歩けるようになりました。

罪を犯しても、その罪に対する「免疫」はできません。この地上にいる限り、私たちは罪を犯し続けます。神を知り、霊的に成長する中で、私たちは神の視点で物事を見ることができるようになります。すると次第に、罪から離れるようになります。誘惑に戦う秘訣を学ぶようになります。たとえイエスを信じて1年目であっても、信仰歴70年であっても、罪を犯すものです。その度に、「霊的呼吸」が必要なのです。

3. 聖霊に満たされても、生き方がそれほど変わっていないように思うのですが…

皆さんの霊的な成長は、神が願っているペースで進んでいるでしょうか。今まで2つの種類のクリスチャンの姿を見てきました。「肉に属するクリスチャン」と「御霊に導かれたクリスチャン」です。実は、3番目のカテゴリーもあるのです。それは「信じたばかりのクリスチャン」です。パウロは、信じたばかりのクリスチャンに関して、こう語っています。

「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」(1コリント3:1)

この手紙を書く数年前、パウロはコリントで多くの人々に福音を伝え、キリストに導きました。手紙を書いた頃、彼らはまだ成熟したクリスチャンとは言えませんでした。もしあなたがイエスを信じて数ヶ月であるならば、まだ「ベビー・クリスチャン」です。「肉的クリスチャン」というよりも、まだ信仰的に若いだけです。

私たち家族がアメリカ中西部に住んでいたときのことです。毎年9月になると、家族でミシガン州にリンゴ狩りに行ったものです。リンゴ園では、リンゴの木が品種ごとに整然と植っていました。旭、紅玉、ワインスナップス…という各品種のリンゴの実をカゴいっぱいに収穫しました。

しかし、リンゴ園のある区画には、まだ実を結んでいない若木が植えられていました。まだ実が結んでいなくても、枯れてはいません。ただ木が若かったのです。ある木は高さ1メートル以下でした。多くの木が実を結ぶ中、若木はまずは木自体を強く成長させる必要があります。そのためリンゴ農家が事前に花を摘み、実が結ばないようにするのです。

キリストに従い続けてください。神があなたを変える力があることを信じてください。それこそ、神があなたに望んでおられることです。実を結んでない今の現実を見て、心配しないでください。リンゴの若木のように、いずれ豊かな実を結ぶようになります。今は成長に集中する段階です。成長には、毎日の過程が大切なのです。

他のクリスチャンと自分を比較しないでください。クリスチャンとして日々、成長することを、むしろ楽しんで歩んでください。日々、聖霊に満たされることを求めていきますしょう。

聖霊に満たされることに関しては、こちらの動画メッセージもご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=hf6D427nVdo

(1) この祈りはビル・ブライト著「聖霊の満たし 豊かな実りあるクリスチャン生活のために」日本キャンパス・クルセード・フォー・クライスト, 2014年, P.12から引用しました。