信仰の本質

毎日の生活の中で、私たちは頻繁に信仰を実践しています。
私たちが当たり前だと思っていることや価値があると思っていることの99%は、知らず知らずのうちに、信仰から始まっているのです。 生活のすべての中心に信仰があります。

例えば、あなたが風邪をひいたとします。あなたは、名前も知らなければ、本当に医師免許を持ってるかもわからない医者のところへ行くでしょう。そしてあなたは、さっぱり理解できない処方箋を医者からもらいます。そして処方箋を、会ったこともない薬剤師のところへ持って行き、一体何で構成されているかも理解できない化学的調合物である薬を、その薬剤師からもらいます。そして家に帰ると、袋に書いてある服用説明書の通りにその薬を飲むことでしょう。

このプロセスの中で、あなたは終始見えない信仰のもとで行動しています。 信仰はクリスチャン生活の中心でもあります。聖書の中では、信仰という単語は232回登場するのです。

信仰とは何でしょう?

この問いを考える上で、まず何が「信仰ではない」のかを、考えることが助けになります。まず以下の3点を示したいと思います。

  • 信仰は、感情的なものではありません。つまり神に対して良い感情を抱くというものではありません。

  • 信仰は、論理的事実をないがしろにするものではありません。暗闇の中、盲目に飛び跳ねるようのものでもありません。

  • 信仰は、人生において望むものを手にするために振り回す「超能力」のようなものでもありません。映画「スター・ウォーズ」で主人公が使う“フォース”と呼ばれる力のようなものではないのです。

残念ながら、信仰に対するこのような誤った考え方を、教える教会もあります。
ハンク・ハネグラフ(1)は自著“Christianity in Crisis”(危機にあるキリスト教)において、パーカー夫妻というある夫婦の話を紹介しています。

この夫婦には、糖尿病の息子がいました。糖尿病の治療にはインスリン投与が欠かせません。にも関わらず、パーカー夫妻はインスリンを息子に与えなかったのです。その理由は「ほんの少しでも信仰があれば、息子さんはいやされるだろう」 と教会で教えられたからです。言い換えるならば「ちょっとでも“フォース”を使えば、息子さんの病気は治るにちがいない」と言われたようなものです。

しかし、不幸にも息子は昏睡状態に陥り、亡くなってしまいます。しかし、パーカー夫妻は、葬儀を行うこともなく、「復活の礼拝」と呼ばれるものを行いました。それは、もし十分な信仰があれば、つまり、疑いという「罪」を一切なくし、強く信じ続けるならば、きっと「信仰」という超能力が息子を死から取り戻してくれる。こう信じたからです。

パーカー夫妻はのちに裁判にかけられ、過失致死と虐待の罪で、有罪判決を受けることになります。 なぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは彼らが信仰に対して誤った理解をして いたからです。

新約聖書にある4つの福音書(マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書)には、イエスの弟子たちが、しばしば信仰について混乱していたことが記されています。しかし彼らは賢明にも、信仰に対する疑問をイエスに質問していたのです。

ルカの福音書17章では、弟子たちがイエスに対して、どうすれば信仰を強めることができるのか質問しています。そしてイエスは次のような返答するのです。

「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。」(ルカ17:6)

このイエスの返答は興味深いものです。お気づきでしょうか。イエスの答えは、今日私たちが教会で言われ、慣れ親しんでいるような回答ではありませんでした。イエスは「もっと頑張りなさい」と言った訳でもなければ、「ただ信じなければならない」と言った訳でもありません。

イエスの返答は信仰の本質についての重要な真理を表しています。からし種は他のどの種よりも小さい種です。イエスは、信仰の大きさ(強さ)は重要ではないことを言い表すため、からし種を引き合いに出しました。むしろ、信仰の力は、その対象への信頼度であって、どれだけあなたに自信をもたらすものかではありません。つまり、あなた自身がどれほど「信じる」ことに自信が満ちていても、その対象が信頼に足るものでなければ意味がないのです。

具体例をあげて、もう少し説明したいと思います。 例えば、私が冬のはじめに、湖の岸辺に立っているとします。湖は薄い氷で覆われています。でも「この氷は乗っても安全だ」という信仰と自信に満たされた私は、新たに張った薄氷の上に足を踏み入れます。たとえ自信に満ち、信仰に満たされていたとしても、結果は氷が割れ、私は冷たい水に落ちてしまいます。私がどれほど「この氷は安全だ」という信仰があったとしても、氷が薄ければ関係はありません。湖面の薄氷は信頼に値するものではなかったのです。

それから数ヶ月後、寒い冬が氷を厚くしました。私が再び湖の岸辺に立つと、今では氷に十分な厚みがあります。数ヶ月前の経験から、私は氷上を歩くことに極めて慎重になっています。氷は私の体重に支えてくれるのでしょうか。前回は氷が体重を支えてくれなかったからです。私が怯え、小さな信仰しかなかったとしても、戸惑いながら小さな一歩を踏み出すと、しっかりと体重を支える氷の感覚が足から伝わってきます。この違いは何でしょうか。信じる対象となる物が、本当に信頼に値するのかが問題なのです。

信仰の力が、その対象に信頼度をもたらすというのは事実です。しかし…

モノへの信頼の度合いは、 そのモノに対して持つ知識に比例します。
例えば、飛行機に乗ることを恐れている男性について考えてみてください。その人は、空港に到着すると、まず彼は自動販売機で保険を買います。そして飛行機に乗ると、離陸の20分も前からシートベルトを装着し、いつも通りに流れる緊急事態に備えてのアナウンスに注意深く耳を傾けます。彼には、目的地へと送り届ける飛行機に対して一切の信仰(信頼)がありません。しかし、旅がすすむにつれ、彼の様子に変化が生じます。彼はシートベルトを外し、機内食を食べはじめます。隣の乗客に話しかけ、冗談を言い合っています。なぜ彼はこうも変わったのでしょうか。上空1万メートルの高度に対して信仰(信頼)があったのでしょうか。もちろん、そうではありません。ここでは、信仰の対象となる飛行機について知れば知るほど、この飛行機に対して持つ信仰(信頼)が強くなったのです。

同じことがクリスチャン生活にも言うことができます。神について学べば学ぶほど、より強い信仰(信頼)を、神に置くことができます。あなた自身の感覚よりも、神のことばを学びましょう。聖書をよく読み、神がどのような存在であるのかを聖書のことばから教えてくれるように、神に願いましょう。

聖書を読むにあたって、どこから読めば良いのか難しく思うかもしれません。読み始めるのに良い箇所はたくさんあります。例えば、旧約聖書の詩篇145, 146, 147篇は、神が一体どのような存在であるのかをよく描写している箇所です。聖書全体を通して、神ご自身についてもっとあなたに教えてくれるように、神に願いましょう。そして、神がどれほどあなたに信頼してほしいのか、はっきりと気づいてください。

どのような状況に置かれたとしても「今置かれている状況の中で、私があなたを信頼すれば、あなたはどのように助けてくれますか」と神に尋ねてみてください。そして、聖書を開き、神に習う者となってください。そうすれば神との一対一の関係を構築することができます。

最後に、信仰の成長について、D. L. ムーディー(2)が以前、このように述べた言葉を紹介します。
「私は毎日、神に信仰を与えてくれるように祈っていました。するとある日、 ローマ人への手紙10章17節が目に入りました。そこには『信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです』と書いてありました。だから私は、聖書を読むようになりました。そしてそれ以来、私の信仰は成長し続けています。」

(1)ハンク・ハネグラフはクリスチャン・リサーチ・インスティチュート所長。アメリカ・カリフォルニア州在住で、ラジオ番組のパーソナリティとして知られる。ハネグラフ氏の邦訳された著書に『ダ・ビンチ・コード その真実性を問う』いのちのことば社、2006年がある。

(2)D.L.ムーディー(1837-1899年)はアメリカの牧師であり、著名な説教者。ムーディーはシカゴで実業家として成功。スラム街での慈善事業に収益を還元する。1860年より事業を譲り、牧師に専念。シカゴのスラム街で教会開拓を行なった。1886年シカゴにムーディー聖書学院を設立した。