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負の現実を神に持っていく

この24時間、あるいはこの1週間で、あなたの人生に何か否定的な出来事が起こりませんでしたか。まだ起きていないのなら、これから起こるのかもしれません。

というのは、イエスご自身がこう語ったからです。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」※1

使徒ヨハネもこう書いています。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」※2

人生に否定的な出来事が起こったときも、神に信頼を置くことが大切です。私たちがどんなチャレンジの中にあっても、神は私たちに対して忠実な方だからです。

イエスはこう語っています。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」※3

つまり神のことばは、私たちの感情よりも真実です。神のことばは、人生に起こるどのような状況よりも、確実なものです。信仰とは何でしょうか。信仰とは、神のことばを信じることです。

神のことばを信じる

特に、否定的な出来事が起こったとき、「どう感じるか」よりも、「神が聖書で何を語っているのか」の方が、真実であることを知るべきです。

この世界を生きる上でどれほどの信仰が必要だと、イエスは語ったでしょうか。イエスは、からしの種ほどの信仰があれば良いと語っています。

「まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」※4

からし種は小さな種です。「からし種」のほどの小さな信仰でも良いというのは、神の恵みです。イエスは、オレンジやリンゴの大きさの信仰が必要だと言わなかったのです。

感覚よりも神の約束を握る

私たちがただ感情に頼って生きるならば、人生は急降下・急上昇を繰り返すことでしょう。感覚とは正反対と感じるような聖書の約束があっても、からし種ほどの信仰で、信じ続けましょう。たとえ微かな信仰であっても、神のことばを信じることを、意志によって選ぶならば、そこに神が働く余地が生まれます。

神はご自身に信頼するように語りかけます。「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」※5

また聖書は「信仰に始まり信仰を進ませる」※6 ものです。初めは小さな一歩かもしれません。しかし神のことばへの信頼は少しづつ、着実に成長します。だんだんと、神への信頼も深まるものです。

信仰と感情

実際、私の感覚に反する、神の約束を受け取った場合、どうしたら良いのでしょう。ときに「クリスチャンなら、こんな感情は持つべきではない」と人に言われることもあります。また「私にはそうは感じない」と言う人もいます。

この列車の図を見たことがありますか。蒸気機関車は、神のことばである聖書です。聖書は真理であり、真実です。石炭車は、神のことばを信じる、私たちの信仰を表しています。そして客車は私たちの感情です。

列車全体を引っ張るのは蒸気機関車です。客車ではありません。感情があっても、良いのです。感情があるのは、あなたが神に似せて造られた存在だからです。しかし感情は必ずしも当てになるものではありません。むしろ私たちは、神と神のことばに信頼を置く必要があるのです。

イエスの苦悩

神に信頼することにおいての最善の例を、イエスの生涯に見ることができます。十字架にかかる直前、イエスはゲッセマネの園で、苦悩に満ちていました。

神の子だから、いつも平穏でいられたというわけではないのです。神に信頼すれば、心が動揺することがまったくないということでもないのです。新約聖書は、イエスの苦悩の詳細を記録しています。

「イエスは悲しみもだえ始められた。…『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。』」※7

十字架の前夜、イエスは深く悲しみ、悩み、苦しみ、苦闘していたのです。しかし、イエスはそれらの感情の中で、父なる神を信頼して、こう祈ったのです。

「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」※8

自分の気持ちを心の中にしまい込み、ただ我慢する必要はないのです。深い感情の動きがあっても、感情の渦のただ中で、神を信頼すれば良いのです。神に信頼を置くことができれば、感情の潮流から自由になれます。

では、どのように否定的な感情を、神に差し出すことができるのでしょうか。具体的な三つの方法を見ていきましょう。

1. 賛美と感謝

神に否定的な感情を持っていく最初の方法は、神を賛美し、感謝をささげることです。

聖書にはこう書かれています。「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」※9

また、このようにも書かれています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」※10

この聖書箇所で一番実行するのが難しいと、私が感じることが「すべてのことにおいて感謝する」ことです。人生で最も困難なそのとき、神に感謝をささげるのです。否定的な状況では、感謝したいという感情も湧いてきません。

何事にも神に感謝

ある夫妻が水曜夜の祈祷会に参加して、聖書メッセージを聞いていました。牧師はメッセージの中で、人生のあらゆること、特に最も困難な状況の中でも、神を賛美し、感謝する必要があることを語りました。

夫婦は帰りの車の中で、こう話し合いました。「僕ら家族にとって、一番難しい問題とは何だろう。……やはり息子のことだろうか。」

夫妻には、17歳になる息子がいました。その息子こそが問題の種でした。息子は両親に対しても、また別の兄弟に対しても、非常に難しい存在でした。両親として、息子にはできるだけの愛情を注ぎ、できることはやってあげました。しかし息子との関係は悪くなるばかりでした。

帰りの車中で、夫婦は初めて、息子のことを神に感謝し、賛美をささげたのです。

その夜、息子は一人、家で過ごしていました。夫婦の車が自宅に近づくと、家中のすべての電灯が点けっぱなしでした。

それを見た夫婦は、車内で祈りました。正直、感情は伴いませんでした。しかし講演で聞いたように、感謝の祈りをささげてみたのです。「父なる神さま、息子が家中の電灯を点けっぱなしにしています。神さま、このこともあなたに感謝いたします。」

家に入ると、キッチンは今まで見たことがないほど散らかっていました。対面カウンターの上には、製氷皿とコーラの缶。パンに、マヨネーズ、マスタード、ハンバーグとクッキー、ポテトチップスが置かれたままでした。

夫婦はその場で立ちどまって祈りました。「主よ。息子のことを感謝します。このような散らかったキッチンも感謝いたします。」

夫婦がリビングに行くと、テレビも点けっぱなし。部屋中に紙が散乱。コーラの缶、クッキー、サンドイッチの食べ残しも置きっぱなしでした。夫婦はその場でこう祈ります。「神さま、私たちの息子を、あなたに感謝します。こんなに散らかしっぱなしであることも、感謝いたします。」

次の日も、また次の日も、夫妻は息子のことをずっと、神に感謝して、祈り続けました。

感謝の祈りが続けた週の日曜日、午後突然、息子が夫妻の寝室を訪ねました。ドアを開けた夫妻に、息子が言いました。

「中に入って、話してもいい?」
「もちろん。どうぞ中に入って。どうした?」

ソファーに腰掛けた息子は話を始めました。

「パパ、ママ、最近いろいろと考えていたんだ。僕はずっとイライラしていた。悲しくて、悔しかったんだ。でも、そのイライラを友だちにぶつけることもできない。先生に反抗するわけにもいかない。だから、家族に八つ当たりしてきたんだ。でも、僕は気難しい人間にはなりたくないんだ。だからこれからは、家族にも、もっとやさしくなるよ。」

感謝できないことも…

「これについては、感謝なんて、とてもできない。」こう感じる出来事に対しても、マイナスをプラスに変えることができる神を信頼して、賛美と感謝を告白しましょう。感情が伴わなくても、私たちが神に感謝の祈りをするとき、私たちの内に信仰が働きます。その信仰を見て、神は否定的な現実のただ中で働きを始めるのです。感謝を祈るとき、神をその最悪な状況に、招き入れることになるのです。

しかし私たちはとかく、否定的な状況に蓋をして、隠蔽しようと試みます。神を問題のただ中に招こうとは考えもしません。しかし感謝しないでいると、否定的な現状に押しつぶされます。心理的に息苦しくなります。

心が守られるためにも、私はあえて神を賛美し、感謝するようにしています。感情が伴わなくても、あなたもぜひ試してみてください。信仰によって、神に感謝と賛美をささげることで、神に働いてもらいましょう。

2.相手を祝福する

相手を祝福することで、否定的な現状のただ中に、神を招くことができます。呪ってはいけません。相手を批判してもいけません。祝福しましょう。私がもっと以前に、嫌な相手を祝福する真理を知っていたなら、数多くの問題を回避することができたと考えています。

聖書はこう語ります。「しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。」※11

ここで言う「呪い」とは、霊能者や占い師に、人の不幸の「願がけ」をしてもらうことではありません。「呪い」とは、相手の悪口を言ったり、人の肯定的な面をあえて見ないようにする態度のことです。

祝福とはその逆で、相手の肯定的な面を、積極的に口にすることです。

呪いから祝福へ

アメリカのオレゴン州ポートランドで、ある牧師夫妻が自分の息子のことで、大きな悩みを抱えていました。彼らの息子は家出をして、連絡も取れず、4年になろうとしていました。

牧師は、知り合いのカウンセラーのところに行き、自分の心を分かち合いました。カウンセラーは牧師にこう語りました。「あなたは息子さんを呪っていませんか。」

牧師はショックを受けました。「私が息子を呪ったですって?」

カウンセラーは答えます。「呪いとは、人を悪く言うことです。また相手をよく思わないことです。話を聞いて、あなたは息子さんのことを否定的に思っているように拝察しました。いつから息子さんに対して、否定的な感情を持つようになったのか、聞かせてくれませんか。」

牧師は話します。「息子が生まれて以来ずっと、私は息子を呪ってきたのかもしれません。息子のことを良く言ったことは、一度もありません。」

「それでは、息子さんとの関係も上手くいっていなかったのではないですか?」

「確かに、そうです。」

カウンセラーはこう提案しました。「あなたと奥さんに、一つチャレンジしてもらいたいことがあるのです。これから2ヶ月間、息子さんのことが頭にうかんだら、彼を祝福してあげてほしいのです。息子さんに、神の祝福があるようにと祈ってほしいのです。家庭で息子さんの話をするときは、彼の良いところを思い出してください。彼の良い部分だけを話してください。」

牧師はこう語ります。「だまされたと思って、とにかくやってみましょう。私にはできることは、他に何もないのですから。」

牧師は家に帰り、妻に話して、夫婦で祝福することを始めました。夫婦で息子のために祈るとき、息子に神の祝福があるように祈りました。息子のことを夫婦で話すとき、彼の良いところを思い出そうとしました。毎日、息子を祝福することを続けたのです。

祝福することを始めて、ちょうど10日目のことです。牧師が書斎にいると、電話が鳴りました。驚くことに、電話の主は音信不通だった息子でした。

息子は言いました、「お父さん、僕もなぜ今、電話しているのかよくわからないんだ…。先週から、なぜか家族のことをずっと考えていたんだ。そこで、電話して確認しようと思ったんだ。」

牧師は「お前から電話をもらえて、うれしいよ。」 牧師は電話口で、息子への負の感情が出てこないように、自分を必死で制しました。数分間のおしゃべりの後、息子にこう提案してみました。

「お前が望んでいるかわからないけど、今度の土曜日、一緒に昼でも食べないか?」

息子も「いいよ。ぜひ会おう。」

土曜日、牧師は4年ぶりに、息子と会いました。息子の服はボロボロ、髪も長く、髭も剃っていませんでした。以前の彼だったら、息子を見た瞬間に、息子の服装について注意していたところです。

しかし今回は、息子のありのままを受け入れ、何があっても息子を祝福しようと、牧師は心で決めていました。牧師は息子に質問をして、息子の心の思いを受け入れようとしました。

昼食が終わったとき、息子はこう言いました。「お父さん、今日こうやって一緒に時間を過ごせて、何だか楽しいよ。」

「お父さんだって、楽しかった。」

すると息子はこう語ります。「お父さん、今夜だけでも、家に帰って、昔使っていたベッドで一晩、寝かせてくれない? お母さんとも会いたいし…。今夜だけでいいんだ…。」

牧師は「もちろんだとも。心から歓迎するよ。」

息子を批判せず、祝福することで、息子との関係がこれほど回復するとは、大きな驚きでした。父親は、この事実に心打たれました。

その夜、父親は息子の部屋を訪ねました。息子のベッドに腰をおろし、こう語りました。

「今まで、お父さんがお前にしてきたことをゆるしてほしい。」

「もちろん、お父さんのことをゆるすよ。」

息子は父親にハグをしました。関係の回復が始まった瞬間でした。いや、関係の回復は牧師夫妻が息子のことを祝福しようと決心した瞬間に、すでに始まっていたのです。

祝福から始まる

人を祝福するとき、神がその人との関係のうちに働き始めます。

自分が蒔いた結果を刈り取ることが、人生の原則です。もし人が批判の種を蒔けば、批判を刈り取ります。祝福を蒔くなら、祝福の実を刈り取るのです。

神に祝福された関係を刈り取りたいと願いませんか。相手を祝福するとき、否定的な人間関係のただ中に、神を招くことになるのです。

3.相手をゆるす

相手をゆるすことで、否定的な現実の中に、神を招くことができます。

聖書はこう語ります。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いにゆるし合いなさい。主があなたがたをゆるしてくださったように、あなたがたもそうしなさい。」※12

神は、人が互いにすぐに不満を持つ存在であることを、知っています。しかし神は、まず神があなたをゆるしたように、あなたも人をゆるすようにと語ります。

だれもが関係の中で、心に傷を受けた経験があるはずです。最も傷つくのは、最愛の家族や、身近な友だちから受けた傷ではないでしょうか。

父から受けた傷

私の心の傷の一つは、父から受けたものです。父の両親も、親として子どもに、どう愛情を表現したら良いのかわらなかったようです。子どもへの配慮ができない両親のもとで、父は育ちました。そのため父も、人に愛や温もりを表現する方法を知りませんでした。

私も、父からの愛情を感じたことがありません。さらに、父は酒乱だったのです。そんな家庭で、私は育ちました。

成長するにつれて、自分の家庭環境に憤りを感じるようになりました。父の母に対する、口のきき方が嫌でした。また、私に対する父の話し方も、配慮に欠けたものでした。父に暴力を振るわれたこともありました。

父と私は互いに、相手を無視するようになりました。母に相談しました。母は「私も、お父さんとはまったく、話が通じないの」と私に語りました。

母ですら話が通じないなら、私とは話が通じるはずがありません。高校時代の私は、父には何一つ、良いところはないと思っていました。父のことを憎んでいたのです。

大学を卒業して数年後、ある牧師の講演を聞きました。講演で牧師は「神は愛です」※13 という聖書のことばを引用しました。牧師は続いて、1コリント13章にある、神の愛について語りました。

神の愛

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することはせず、自分の利益を求めず、いらだたず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばず、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」※14

牧師はこの箇所の「愛」の部分を、「神」と置き換えて、読んでみるように勧めました。「神は寛容であり、神は親切です…。」神は私たちに寛容です。神の愛は親切です。神は、私たちに期待を寄せています。私たちのためにすべてをがまんし、すべてを耐え忍びます。この1コリント13章にある愛をもって、神が私を愛していることがわかりました。

その集会の直後、私は父のことを考えました。父がその態度を改め、お酒をやめてくれたなら、私は父を愛せるのに…と考えていました。

しかし神がこう語っているようでした。

「ネイ、あなたはすでに聖書からの光を受けている。あなたはすでに、神の恵みを学んだはずだ。わたしのあなたのお父さんに対する愛は、親切である。あなたのお父さんにも、わたしは忍耐深く、愛している。あなたのお父さんに、わたしは期待している。わたしの愛は、あらゆることを耐え忍んでいる。ネイ。あなたの方から、お父さんへの最初の愛の一歩を、踏み出してほしいのだ。」

涙があふれました。父に対する愛に枯渇した私に気がついたからです。神が、私の人生に働きかけようとしていました。私に何ができるしょうか。神も私と一緒に実家に行って、何らかの奇跡を起こしてくれなければ、無理だと思いました。

愛の主導権

数ヵ月後、私は実家に帰る機会がありました。帰省の前に、今度こそ父を受け入れ、愛し、ゆるそうと決心していました。

父も、私の態度の変化を感じ取ったようです。私が父に親切にすると、父も私に親切のお返しをしてくれたのです。父は、人をどう愛したら良いのか、わからない人でした。しかし父は、受けた愛を、同じようにお返しすることはできたのです。

もっと早くこのことに気づき、父に優しくしてあげたら良かったと、後悔しました。父は私の愛へのお返しに、ショッピングモールに私を連れて行き、3着のドレスを試着させてくれたのです。今まで、父からそんな親切を受けたことはありませんでした。

両親を敬う

実家から戻るとき、一つの聖書のことばを思い出しました。「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」※15

この聖書箇所を黙想したとき、私は神にこう祈りました。「両親を敬うように命じたのは、あなたです。今後も、どう両親を敬えば良いのか、具体的に教えてください。」

そのとき、生まれて初めて、両親のことを神に感謝することができました。

またあるとき、私はぼんやりと窓の外の景色を眺めていました。そのとき、ふと父のことを考えました。

「もし父が死んで、棺に横たわる父を見たら、私は後悔するのではないだろうか…。思春期のころ、私が父に憎しみの心を抱いていたことを、まだ父からゆるしてもらっていない。きっと今、父が死んだら、心の憎しみについて、父にゆるしを求めなかったことを、私は後悔することだろう…。」

今度、実家に帰るとき、父にゆるしを求めようと決心しました。しかし父とこのことについて話すのには、大きな恐れがありました。

ゆるしを求める

次に実家を訪ねたとき、両親はテレビでフットボールの試合を観ていました。ハーフタイムまで待って、父にこう話しかけました。「お父さん、私が思春期のころを思い出したんだけど…。私はどんなにか、お父さんに対して愛がなく、思いやりがなかったか…。 私のことをゆるしてくれる?」

しばらくの沈黙がありました。父は私に向きを変え、目を輝かせて、こう話しました。 「えっ。何のことか、まったく覚えていないな。」

私には何よりも、父からゆるしの言葉をもらうことが大切でした。「思い出したことで良いから、私をゆるしてくれる?」

父は「わかった。ゆるすよ。」と答えました。父は「次はいつ、どこに旅行に行く予定なのか?」そんなこと、今まで一度も聞くことがなかった父でした。

帰り際には「今度は、いつ実家に来てくれる?」
私は「12月21日か、22日には来るわ。」
すると父は「ならば12月21日に会うことを、楽しみにしてるよ」と言ったのです。

愛の表現

ある日、母から電話がありました。「ネイ。お父さんがあなたのために通販でプレゼントを買ったのよ。今日、お父さんがラッピングをして、郵便で送ったわ。お父さんはサプライズで、あなたに送ろうとしたんだけど、事前にあなたに伝えておくわね。」

私は、荷物が届くのが待ちきれませんでした。父から今まで、プレゼントが届いたことはありません。

父からのプレゼントは、メリタの旅行用オールインワンのコーヒーメーカーでした。私がコーヒーが好きで、よく旅行に行くことも、父は知っていました。私は父のプレゼントを手に取り、こう祈りました。

「神さま、この携帯用コーヒーメーカーをありがとうございます。でも今、私が手にするのはコーヒーメーカー以上のものです。あなたが父との関係を回復させてくださいました。ありがとうございます。」

ゆるすことを選ぶ

「からし種」ほどの小さい信仰でしたが、私は父をゆるすことを選びました。あなたが心に傷を負ったとき、ぜひこう自問してみてください。「私が負った傷は、イエスが受けた傷よりも大きかっただろうか。」「それとも、イエスが受けた傷が、私の負った傷よりも大きいのだろうか。」

ゆるすことは、私たちの選択です。人生には、ゆるせないと感じる出来事が、だれにでもあるものです。しかしある人から聞いたこの言葉に、私は深く納得しました。「ゆるすことで、罪に捕らえられた私が解放される。」

父から、私にゆるしを求めたことはありません。しかし私が先に父にゆるしを求めるように、神が私に語ったのです。私が先にゆるしを求めたとき、父が変えられました。

ゆるすべき人が、すでに亡くなっている場合もあるでしょう。しかし神は、時間によって制限される方ではありません。神はきのうも、今日も、そして永遠にまでも、変わらないお方です。今日、あなたが神にゆるしを求めて祈るならば、神はあなたの祈りに答えてくれます。神があなたに究極的なゆるしを与えてくれます。

否定的な現状に神を招く

あなたの人生で、否定的な現状はないでしょうか。神にしか解決できないような、ネガティブな状況はないでしょうか。その人生の暗部に、神を招きましょう。

まず、神を賛美し、神に感謝をささげましょう。たとえ感謝できないと感じる出来事も、信仰によって、感謝の祈りをささげましょう。

否定的な現状は、だれか他の人に責任があるのかもしれません。あなたはその当事者に批判的になっていませんか。その人の陰口を言ったり、心の中で悪く思ったりしていませんか。あなたがむしろ、その人を祝福する人になってください。

心に深い傷はありますか。神があなたの心に働き、当事者をゆるすことができるように、祈ってください。

ぜひ、否定的な現状に、神を招いてください。神の力が先行き不透明な現実に働き、問題を解決してくださるようにお祈りします。

Ney Bailey著『Faith Is Not a Feeling』Waterbrook Press, 2002より許可を得て転載。

[著者紹介]
ネイ・ベイリー(Ney Bailey)は50年近く、国際キャンパス・クルセード・フォー・クライストのスタッフとして仕えている。世界各地の大学やカンファレンス、リトリートの講師として、大学生や議員、外交官と幅広い人々に、自身の経験を講演をしている。ネイは1976年7月に、アメリカ・コロラド州で起こった洪水から生還。しかし同じ洪水で同僚7人が犠牲になった。一人生存した痛みにどう向き合い、心の傷がどう癒されたかを記した『Faith Is Not a Feeling(信仰は感情ではない)』を出版。本稿はその一部を許可を得て、転載したものである。

脚注:(1) ヨハネ16:33 (2) 1ヨハネ5:4 (3) マタイ24:35 (4) マタイ17:20 (5) 2コリント5:7 (6) ローマ1:17 (7) マタイ26:37,38 (8) マタイ26:39 (9) エペソ5:18-20 (10) 1テサロニケ5:16-18 (11) ヤコブ3:8-10 (12) コロサイ3:12,13 (13) 1ヨハネ4:8 (14) 1コリント13:4-8 (15) 出エジプト20:12

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